丘の表情
yonkichi, · カテゴリー: 旅1986年夏。この頃私は大学生活を送り、アルバイトとツーリングに明け暮れていた。そして高校時代から温めていた日本縦断に出る為に、着々と準備を進めていた。
夏休みをフルに使い、いやフルどころかオーバーしながらの約2カ月間、すっかり旅の中に身をまかせた。別に長い期間ではない。友人にはそれこそ4月から10月までずっと丘の上でテントを一度も張りなおさずにキャンプ生活をしていたり、それこそ渡りのように何年も旅を続ける知り合いも少なくはない。
こうしている今も、定職に就かず、あの頃みんなが持っていた旅人の精神を保ったまま、生活している友人もいる位だ。私はそれこそそれまでの人生で、同じ考えを持つ友人を持った事がなかった。上っ面だけではなく、そう、ポリシーとも言えるもの。その波長があう人々と大勢出会う事ができたのは、ロングツーリングに出たからだとも言える。
7月の下旬、前期試験が終わった翌日に有明埠頭にレザージャケットを荷物に積んだSRX-4と共に居た。丁度台風が来ていて、通常48時間で到着する予定だった那覇には、56時間を費やして夜に到着。いきなり銀マットを敷いてゴロ寝をした那覇新港。レザージャケットはこれから少しづつ北上し、9月に北海道を走る為のものだった。
正直、沖縄・九州・東北以外はあまりウェイトを置いていなかった。早く北海道に入りたい、早く丘に上がって、ほっとしたいと思っていたのかもしれない。でも途中、球磨川の支流で泳いだり、山口で味のある喫茶店で1日ゆっくりと過ごしたり、九頭竜湖の近くの清流の美しさと静けさに日が暮れるのも忘れて座り込んでしまったり、乳頭温泉郷のダートの奥の秘湯でランプ照らす露天風呂から天の川を見上げたり、いろいろな素晴らしい出来事や出会いがあったのも事実だ。
北海道へ向かう足を早めさせたのは、やはり私に何かを与えてくれる地なのだろう。全都道府県を走破する事で、その気持ちを確かめたかった。少なくとも日本をこの目で一通りみておきたかった。海外にいずれ行く時が来ても、日本を知らない日本人ではいたくなかった、と偉そうな事を当時言っていたが、本気でそう思っていた。
函館から北海道に入った後、それまでよりもゆっくりとしたペースで、時計まわりにゆっくりと道東に入った。中標津にはまだその当時、道々をよく知らず、国道沿い(今はバイパスが国道になり、町中を貫く道は道々になってしまっている)のコスモ石油の十字路を曲がり、町役場を抜け、中標津空港沿いから左手前方に開陽台をかすかにみながら向かう。
沖縄から走り続けてきた私にとって、目的地が近づく。空は去年と同様、どんよりとしていた。まだ晴れた開陽台を見た事がないが、高揚しつつ細い丘へ登る道を上がっていくと、そのままトイレ横の側道に乗り入れ、一気に丘の上まであがる。
丘の上はやはり霧に包まれていた。しっとりと芝を濡らし、霧が生き物のように流れる中、残念な気持ちでテントを早々に設営し、荷物を放り込み、まだ昼過ぎだというのに長旅の疲れも溜まっていたせいか、眠ってしまった。
しばらくして、テントを設営していた時に少し話をした旅人がテントを叩いて私を起こした。今自分がどこにいるのかがわからないまま、出てこいという言葉のままテントから外に出てみて唖然とした。
空は真っ赤に焼け、素晴らしい夕陽だった。雲が輝き、武佐岳が照らされ、オホーツクまや根釧原野まで視界がひろがり、見事なまでの夕陽だった。太陽が西別岳の向こうに消え、星空が少しづつと現れてくるドラマティックな景色を、ずっと立ち尽くして眺めていた。
あたりは真っ暗になり、漸く知り合った旅人たちとまともな会話を交わしはじめた。ランタンを灯し、電線ロールのテーブルでささやかな食事をしながら旅人同士のありきたりな会話を楽しんだ。この時間がやっぱり心地よい。この場所が私にとって何より大事なんじゃないかと思いはじめていた。
ふと空を見上げると、恐ろしいと思えるばかりの星空。雲ひとつない星空で生まれて初めて見たもの。それは地平線から地平線へ続く、天の川。プラネタリウムではない、まさに今この目でみている星空が教えてくれるものは、この満天に輝く星のひとつに私も居るという事だ。ランタンを思わず消した。
丘に吹く風は、霧を飛ばし、夕陽と星空を連れてきてくれたのだ。
翌朝、太陽が国後の端から登るとテントが蒸し風呂になる。フライシートをあけ、ピーク1に火を入れ、コーヒーを沸かす。湯気の先に、輝くオホーツクと国境が霞んでみえた。

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