丘に吹く風

時には地を這うように、時にはささやくように

旅の始まりと行く先

yonkichi, · カテゴリー:

今日は伯父の四十九日の法要。昼前から夕方までお寺にでかけた。上下ブラックスーツだったので、日差しの下だと汗ばむ程の暑さだった。5月下旬の陽気だったらしい。ここ本当に気温差が激しく、調子が狂ってしまう。その間、くーは留守番だった。
帰ってきて疲れたので少し休憩。夕食前にまたウェブの続きをしようとPCルームに籠もったのだが、結局材料がなくて古い写真をあさっただけで夕食時間になってしまい中断。先が思いやられる。できればGW前に形をつくりたいのだが、この調子だとどこまで進められるか…
その作成中のウェブページは、。ハイジーの家のオフィシャル・サイト。ハイジーの家ができた1986年は、日本縦断の旅の中だったのだが、。ハイジーの家には立ち寄らなかった。まだ北海道の事を何も知らなかったくせに、新しくできる施設に妙に反感をもっていて、入ろうともしなかったのだった。この事は後にかあさんに毎年のように責められたのだが…1987年の旅では、しっかり。ハイジーの家に入り浸る事になった。
丘の上はまだフリーで、柵もなく、カメハウスの横までバイクを横付けする事ができた。悪天候の日はカメハウスの中で寝る者もいたようだが、私は基本的にテントで過ごし、夕食時だけはその時会話した旅人たちと取る事が多かった。そんな中、多くの人が訪れる場所という事もあって、問題を起こすものも多少出てきてしまうのは仕方がない事だ。とりまきができたり、グループ意識が強くなり排他的になり、いわゆるヌシ的な存在が登場してくる事は、当時の北海道各地ではお決まりのパターンだったようだ。
私は深く関わりあわなかったが、。ハイジーの家にいるといろいろな話を耳にする事になる。特に80年代後半から私も夏から秋にかけて毎年訪れるようになり、いろいろな知り合いが増えていったのは確かだった。基本的にはソロの集まりばかりなのだが、多くは20歳前後の若者が殆どという事もあり、その精神年齢の差には幅が出てしまう。
私は1986年にこの丘で出会い、摩周湖で泳ぎ、数日を一緒に過ごした連中とは、何年もしてから1人と再会したのだが、本当の深い付き合いになったのは、1987年の夏の終わり、一人の男と出会った。彼の名はしいたけ兄ちゃん。彼の話は個人情報保護に抵触する為と、長くなるのでここでは割愛するが、彼を介した旅人との知り合いが広がり、今の私があるといっても言い過ぎではない。この丘で私の旅人としての方向性が、決まったのは確かだ。
その運命の夏の終わり、私は開陽台に連泊する一人のツーリストだった。この写真のように多くの旅人がそれぞれの旅を楽しんでいるが、この中で何人、今も旅を続けているのだろうか。
旅は若き日の1ページなんかじゃない。旅はシナリオのないノンフィクション。ハッピーエンドになるか、バッドエンドになるかはわからないが、自分の物語はひとつしかない。旅をしていれば、その物語はずっと続く。自分がその物語を終わらせようと思えば、旅を終わらせればいい。簡単だ。
私は無職になってまで旅をしていた訳ではないが、それなりに自分が許す範囲で、時間のある限り旅の為の資金作りと旅をしてきた。当時はそれなりに一生懸命だったのだが、今思い返すとまだまだもっと旅をしておけばよかったと思う。それだけ旅は面白いものなのだから。
そうこの夏の終わり、この丘で「よんきち」は生まれたのだ。
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