丘に吹く風

時には地を這うように、時にはささやくように

ちょっとだけワクワク

yonkichi, · カテゴリー:

同僚がしまなみ街道を踏破中だった。だった、というのは、2日間で80km弱を歩き通してしまったので、踏破したという事だ。
先日好きなテレビ番組、「鉄腕DASH」のソーラーカーで通ったルートも一部含まれるが、尾道から船に乗り、因島に上陸。そこから生田島、大三島と歩き、昨日はテン場でソロテントを張り、至福の時間を過ごしたらしい。
中国地方は私は殆ど通過しただけ。四国は浪人時代にぐるっと1周したのが最初で、96年の春に川めぐりの旅をした。日本の田舎が感じられる、好きな場所だ。
最初に四国に渡った時、神戸東港から三宝海運の「ほわいとさんぽう」に乗り、瀬戸内を夜の間航行し、朝、今治経由で松山に到着し上陸した時、私は神戸まで一気に走った時よりも、ロングツーリングの楽しさを感じた。それから毎年のようにフェリーに乗り、北や南へ旅をしはじめたきっかけになった旅だった。
この秋には讃岐うどんを巡る旅を計画していた。しかしすっかりアジ一色になってしまった事もあり、自然消滅。旅らしい旅をしていない今年、ちょっと欲求不満だったりする。3月に北海道に行ったのだが、それだけではもの足らないようだ。
歩いたり、自転車で旅する事はもう私にはできないが、私より年上の同僚は心臓が悪いにもかかわらず、歩くのが好きだ。ウルトラマラソンにも以前は出ていた程。クロカンの競技もやっていた。ちょっと変人だが、最近殆ど遊んでいなかったので、きっと久しぶりに気持ちよい時間を堪能している事だろう。
よい旅を。そして、帰ってきたら旅の話を聴かせておくれ。
写真はまだ10代の頃、初めてのロングツーリングで松山に降り立ち、朝から道後温泉に入り、熱さでのぼせてしまった風呂上がりの絵。
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丘へ通わなくなった日

yonkichi, · カテゴリー:

私は1985年から丘にあがり始めた。そして、開陽台で知り合った友人たちと、その繋がりで和琴で知り合った友人たちと、北海道に渡らない時も多く交流してきた。
なぜだか、学生時代よりも、社会人時代よりも、彼らはとても気持ちのよい間隔を保ち、同じ匂いがしていたという表現が一番近いのだが、それまでの人生も、職業も年代も違う連中に、とても深い親しみを感じていた。
そして、内地でも毎年焚火を囲むキャンプをしたり、とある高円寺の古アパートで、一晩中ギターをかき鳴らしてフォークを歌ったりしていた。その時間は今も鮮明に憶えている。
開陽台にハイジーの家ができ、93年にハイジーがなくなるという噂を某兄ちゃんが流し、多くの旅人が飛行機で閉店に集まった。その年はガセだったのだが、少なくとも「そうなる予感」は充分にあったんだと思う。事実翌年には、本当にハイジーの家の撤去があった。
その94年、私はぜひともバイクで丘に上がりたかった。近海郵船でカブを無人車で送り、釧路で受け取って、R272を走った。武佐サマが雪化粧をし、平地でも雪が舞っていた。その年は、今の展望台ができて、ハイジーの家はこの時点で展望台に入るかどうかを決めかねていた。いろいろ、本当にいろいろあったのだ。だからこそ、ハイジーの家がこれで最後だという気持ちを強く感じていた。
その年は丘の上には大きな建造物を建築中で、立入禁止の看板が建てられ、それらは寒風に吹きつけられていた。
私は閉店パーティ最中、そっと抜け出し、丘の上に上がった。立ち入り禁止のロープを潜り、足場だけが組まれている2階部分にあがり、そこで仰向けになって無限に広がる秋の星空を眺めた。そして自然に涙が流れてきた。声をあげて、止まらない涙を拭く事もなく、30分以上、そこに居た。
私はこの日を自分なりのピリオドを打とうと思った。それでいいとも思った。別に誰のせいでもないし、どうなる訳でもない。悲しいという訳でもなかった。ただ、何かにもどかしかったのだと思う。それまで大事にしてきたものが消える運命を頭で理解していたが、無力な自分がきっと悔しかったんだと思う。
翌年、新展望台の1階にテナントとして入る事をかあさんととうさんから聴いた。色々あった中で、きっと大きな決心だったと思う。事実そのあと、色々苦悩の日々があったようだ。私も翌年、7月に1度、バイクで丘を訪れたが、テントを張らなかった。張れなかったと言ってもいい。
そしてその1カ月後、あらためてまたバイクで丘にあがったのだが、実はそのちょっと前、古い友人のシェフから、新しくなった丘にテントを張ったよ、という連絡があった。そして、彼は「やっぱりここはいい所だよ」と言ったのだ。それを聴いて、私は新しくなった開陽台で、第2期のキャンパー生活をするようになっていった。
あの日、あの夜の工事現場での事は忘れない。私の丘への思い入れ。それは今でも変わらないのだが、きっと今回の閉店の場に居たら、また違った感覚なのだろうと思った。そしてきっと涙は出ないと思う。私の中では、もう整理はついていたのだ。
97年に結婚式をあげた開陽台。かあさんはとうさんと娘さんと計画し、わざわざ牧師さんを呼んでくれた。私も今はなき父親も、当時のビデオで微笑んでいる。あの夏も、開陽台とハイジがあったからこそ、素晴らしい友人と時間を共有できた。
開陽台はもう私たちの手の届かない所に行ってしまったのかもしれない。でも一時期を私たちが過ごした事は、しっかりと今も「風の想」レリーフに刻まれている。
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閉店パーティの日

yonkichi, · カテゴリー:

ハイジの家は、毎年秋に閉店し、冬は休業した上で、春にまた開店していた。
冬は訪れた人なら分かるが、吹きさらしの風が丘を巻いていて、一度降った雪が舞い上がり、真横に雪が降るような日が多くなる。雪がもともと多い場所ではないが、年に数回積もるのだが、一面真っ白の雪原にはなかなかならない。
風は殆ど四六時中吹き続け、訪れる人も少ない…と言いたい所なのだが、真冬でも観光バスはやってくる。おまけに観光休憩が割り当てられているらしく、多くの観光客は停められて扉を開けられ、何分集合と言われると思わず外に出てしまうだろう。風に吹きさらされて、沈まなくなった雪の上を、観光客はまともな防寒装備もないまま、展望台までまるで八甲田山の雪中行軍のように列をなして歩いていく。
彼らは展望台の上まで登るのだが、階段は青氷が張っている。ただ溶けていない分、そうそう滑るものではないが、たまに怪我をする人もいるらしい。そんな過酷な冬、展望台は閉鎖され、店舗も営業はしない時期になり、あとは冬にあえて丘に上がる旅人だけが独り占めできる世界になる。
冬組、春組とかいわれる旅人は、夏に訪れる旅人とは違い、自分たちだけの開陽台を楽しんでいた。彼らはどちらかというと、ハイジーの家はあまり関係なかった。
私も93年、94年、99年と閉店に顔を出した。秋はたった3回なのだが、町のとある建物で行われるパーティは1回。その前はあの駐車場脇にあった、テラコッタ色をした建物で星空を見ながら、防寒着を来てベランダでバーベキューをしたり、バカな話をしてそれぞれの時間を楽しんだ。
今年もつつがなくそのパーティは終わったそうだ。それはいつもと変わらないように。今後の話よりも、今年1年お疲れさまという慰労のようなものが強い。しかしきっと今後の話を長く語る事は、それぞれの心の中で抑えていたのだろうと思う。
ハイジーの家は単なる喫茶店だったのかもしれない。でもこの喫茶店は、年を重ねる毎に、旅人たちの中で大きな存在になっていったのも間違いない。それが単なる喫茶店ではなく、居場所を求めた先が、喫茶店の形をしていただけなのかもしれない。
パーティが終わったあと、しばらく丘のテントに戻る者もいるだろう。北海道を離れる為に移動している者もいるだろう。また来年、ここで会うのが当然のように、多くの言葉を交わさずに別れていく。
来年からどうなるのだろうか。きっと、丘にあがったとしてもテントを張る回数は極端に減ってしまうのではないか。私はその日が来るのが実はとてもショックを受けるだろうと自分で思い、数年前から丘にテントを張らない年や、弟子屈までは来ても、丘にあがらない年などをつくってきた。結構そのあたりは弱い所なのだ。
といっても誰かがこの世からいなくなる訳でもない。みんなそれぞれの次の時代を生きていく。あの日々を思い出しながら。
写真は1994年秋。下のハイジーの家最後の日。集まった皆は、同じものを持っている。
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