丘に吹く風

時には地を這うように、時にはささやくように

パッキング

yonkichi, · カテゴリー:

ツーリングに出るという事は、ただ走るという目的と、数日かけた旅を目的とすつ場合がある。以前は1日走るだけという事もあったが、ここ数年は計画的に1週間以上の期間をかけて、旅をする為にバイクに乗る事が私の乗り方となっている。その場合は、当然旅の間に使う着替えなど必要なものを積んでいく事になる。
もともと積載性はたかがしれている乗り物だ。その中でいかに必要最小限かつ機能的なものを選び、いかに効率的に積むかという事に楽しみを見出している。要は自己満足の世界だ。別に誰に見せる為でもない。自分が美しいだけでなく、機能的にパッキングした旅するオートバイを見かけると興味をもって分析してしまうように、誰かが自分の積み方をみて何かを感じてくれる事もあるかもしれない。それはそれでとても光栄な事だ。
積み方としては、バイクによって、そして載せる量によってかわるものだ。しかし基本的にスタイルは同じ方向性になる。低重心で、バランスよくがテーマ。
ある頃から、周囲でパニアケースを使用したパッキングをする友人が増えた。便利であり、また防水性を保ち、思いのほかライティングに影響しないように考えられているというのもよく分かる。しかし、私は使った事がない。これは単に好みの問題だと思う。個人的に美しくストレッチコードでバックを積んだバイクの美しさが好きなだけだと言いたい所だが、単にパニアを買うお金がなかっただけなのかもしれない。
バッグは基本的に、振り分けバッグ、リアバッグ大、リアバッグ小がある。それに車種別で、タンクバッグが加わったり、ザックを背負ったり、ウェストバックを前にまわして装着したりする。このように分ける事で、自分なりに効率を考えている。スタイルは、人のを参考にしたのかもしれないが、長い事この形を貫いている。
振り分けバッグには、重量物か、取り出しやすいもの。パンク修理セットや簡易工具。キャンプストーブやランタン、コッフェルに加え、レインウェアやレイングローブが主に入る。タンデムシートに振り分けバックをかける事で、サイドに張り出したバックとタンデムシートが、広い積載スペースを作り出す。
この上に、少々大きめの肘掛けつき折り畳みパイプ椅子が畳んだ状態で載る。そのパイプ部分が簡易キャリア代わりになり、安定して大量の荷物を積む事ができるようになる。場合によってはこの椅子は小型になったり、サーマレストのエアマットを詰めて座椅子にするタイプを載せる事もある。
大きいリアバッグには、シュラフ、銀マット、テント、重ね着用ウェア、マイクロフリース上下などが入る。うまく詰めていかないと、ストレッチコードで締め上げた時に、バランスが悪くなるので、左右および厚さを確認しながらできるだけ詰め込む。このバックは素材自体が防水機能のあるものが安くて扱いやすい。ここまででまずストレッチコードを平行に2本、クロスで2本をかけて固定する。
その後ろにちょこんと載るように、小さいバッグを載せる。クロスしたコードにバッグのD管などを通し、完全に脱落しないようにした上で、最後にその上に大きなツーリングネットをかける。これにより、グラブを挟んだり、途中で買い出しした食材を間に挟んで載せる事ができる。小さなバッグは、フェリーに載ったときや温泉に立ち寄った時にこのバッグだけをもっていけばよい様に、下着数枚と短パン、パソコンやカメラの付属品など、精密機器を下にクッションを入れつつ入る事となる。まあ遊び道具が半分以上を占める事になってしまうのだが。
これが主な荷物なのだが、これに加え、タンクバッグやウェストバッグ、ザックなどにカメラや貴重品を入れ、肌身離さず持ち歩く事で、完成する事になる。オンロードバイクではタンクバックが便利で、コロナの伝統的なバッグから、マグネット型になるまで使ったが、ここ10年以上タンクバックを使った事がない。殆どオフロードバイクだからなのだが、主にマウンテンスミスのデイパックが常に腰に巻かれている。
この写真のように、スタンダードなミツバチ族スタイルだった1989年。今でもリアの積み方などはかわらない。転倒しても、ダートを走っても、これまで荷崩れした事はない。美瑛は暑く、ジャケットをリアに積んで走っていた夏。
旅人がいろんな積み方をしているのを見るのは好きだ。そして荷物がしっかり積まれていると、旅を感じる事ができる。まあどこかにベースを張って、空荷で走る事も多いのだが、やはりしっかり美しく機能的に荷物が積まれたバイクというものは、何か自分でもワクワクできるし、町中でみかけたりすると一人ニヤついてしまうものなのだ。
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ヒマラヤの麓で

yonkichi, · カテゴリー:

バックパックの旅をしていると、やはりその異国の地でバイクに乗って走りたくなる。それが、7000m、8000m峰を望む町、ネパールはポカラだとそれは夢のような話だ。
タイや台湾、ましてや中国大陸なんかをバイクで走るなんて、国際免許があったとしても、リスクが大きすぎてたじろいでしまう。知人の中には、そういう土地だろうともっと危険な南米や砂漠だろうとも、ツーリング目的に旅に出る人も少なくない。その人たちから薦められた事もあるのだが、なかなかその決心がつかない。
水曜どうでしょうでも、カブでベトナムを走る旅が楽しかった。ただその土地や国の背景も含めて、私はまず歩きたい。ボロボロの路線バスで苦労しながら旅をしたいとも思う。まったく別な旅として、バックパッカーというのにも憧れるのだった。
開陽台を始め、日本縦断の時などロングツーリングをしていると、多くのバックパッカー経験者とも出会う。ただ不思議な事に、両方をまんべんなくやっている人はなかなかいないようだった。海外に出る人は、日本をまわらないでいきなり海外に出てしまう事も多いようだし、逆に国内専門で海外は未経験か、もしくはツアーで少しだけ英語圏に旅をした事がある程度というのが多いように感じる。
そんな中で、海外の魅力をネパール人そっくりのボクちゃんやカイラスをも巡礼した先生など、まだ見ぬ海外の旅を聴き、どんな所なのかを想像しながらいつか旅する事もあるだろうと思いながら、地球の歩き方などを立ち読みする時もあった。
そしてとうとう海外バックパッカーデビューする日が来た。学生時代にヨーロッパを駆け足で巡るツアーには行った事があったが、往復の飛行機だけであとはフリーという、いわゆるスケルトンでの海外はまずタイから始まり、その次には夢にみたネパールだった。
タイではその壮絶な渋滞と小排気量のバイクタクシー、トゥクトゥクのアグレッシブな走りでおなか一杯になってしまった。またネパールでもカトマンドゥはやはり相当気をつけなければ、事故に会う確率も低くなさそうだった。交通ルールというよりは、臨機応変が全ての状況で求められる世界だった。何が起こってもおかしくないし、誰も助けてくれない。それが異国だ。
そしてポカラにやってきた時、これなら走れるかなと思った。丁度仲良くなったネパール人のゴビンダ氏の仲介で、やってきたバイクはインドのエスコット100。ヤマハのRDとほぼ同じモデルだが、インドの現地法人が作っている。殆どネパール国内でみかけるバイクは、このエスコットだったので、選べるような状況ではなかった。
免許は不要。単に「日本で乗ったことがあるか」と聴かれただけだ。保険も何もない。ヘルメットも強烈に臭かったのだが、頭にバンダナを巻いてかぶった。2ストロークの100ccで、ガソリンもオイルも粗悪なものだ。パワーなんかありゃしない。とはいえ、ポカラの町を抜け、チベット難民キャンプ近くのデビットフォールや、サランコットまでの峠道へ。それだけで楽しかった。
雲が空の低い場所に溜まっているが、その上に7000m弱の標高がある、アンナプルナ山系の霊峰、マチャプチャレが頭を出している。アンナプルナサウスの白い頂きも、想像を絶する位置に、そう空の中に浮かんでいた。そんな中バイクで走れる事は、大げさだが夢をみているようだった。
翌日から、そのダンプスという村を経由し、バイクで登ったサランコットまでを自分の足で歩く。トレッキングという奴だったが、ヘトヘトになり自分の足で歩く事の大変さと、その気持ち良さを大いに感じる事ができた。バイクとどちらがよいか?さあ、それはわからない。まったく別なのだと思う。共通なのは旅だという事だけだ。
ただバイクでヒマラヤの麓を走った。それは夢ではなく事実だった。非力なバイク?そんなのはどうでもよい。確かにツーリングできた事に、ひとつの夢を達成できた事が、嬉しかった。
写真はサランコットの丘の下、マチャプチャレを望んで。
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南へ向かう

yonkichi, · カテゴリー:

日本縦断の旅は1986年。決行は夏休みに入ったその日だった。しかし、台風が通過し、いきなり出航が2日も遅れてしまった。あらためて有明埠頭に向かうが、北海道航路とはまったく違う、手前右側に接岸している白と青に塗られたA-LINEと書かれている船が乗る船だった。
これまでのフェリーとは違って、この大島運輸はフェリーとは名ばかりで殆ど貨物扱いとなる。乗り手がそのまま乗って乗船する事はできず、作業着にドカヘルで地下足袋の港湾のおじさんが運転して乗せる。買ったばかりのSRX-4だったので、その固定方法が非常に心配で仕方がなかった記憶が残っている。私がエンジンをかけて、少しふかし気味にクラッチミートをして、大きな口をあけた船倉へのタラップの先に消えていった。
船のサイズにしては小さい船室は、当時は正直な所2等しか知らなかった。個室なんていうのはとんでもなく高く、また二等寝台のようなソロパッカー向けの等級もなかった。区切りのない2等船室。ザコ寝だ。ここで48時間を過ごす事になる。正直そんなに不安や退屈が待っているような気分ではなく、これから向かう沖縄から始まる、長い日本縦断の旅への不安と期待といったものが大きくて、落ち着かなかった。
この旅の為に買った分厚い日本道路地図。表紙を破り、ピレリのステッカーを張った。その地図を開き、まず向かう沖縄から、その後九州というあたりまで船の中でじっくりとルートを考えた。カップラーメンやバターロールなどを買い込み、この長い航路を過ごす準備万全で望んだ。
とはいえ、殆ど寝て過ごしたようなものだった。風呂の時間には風呂に入り、甲板に出て夕陽を見ながらビールを飲んだ。中継港の志布志を超えたあたりから、船首があげるしぶきの中に、トビウオが飛んで逃げていくのを眺めていた。奄美大島の名護を出てからイルカをみかけた。与論の港についた時に、学校の友人がこの夏住み込みでアルバイトをしているはずなので、港で友人を探した。彼は女の子に囲まれて、メガホンを持って呼び込みをしていた。そしていよいよ那覇新港へ。
台風の余波で波が高かったらしく、50時間以上かかり那覇に到着。本来なら夕方に到着し、宿を探そうと思っていたのだが、すっかり暗くなっていた。とりあえず何か食事をと、適当にバイクを走らせ、ぽつんと1件だけ明かりがついていた小料理屋をみつけて入った。当時まったく無知な私は、琉球料理というものがわからず、おかみさんに適当に頼んだ所出てきたのがてびちとラフテーとジューシーだった。
オリオンビールや泡盛を飲み、調子に乗っていろいろなものを食べたが、船旅の疲れもあって気持ちわるくなってしまった。寝る場所を探しに一旦港に戻るが、もう動けなくなり銀マットを敷いて屋根もない埠頭の片隅で転がって寝た。辛い日本縦断のスタート初夜だった。
寝ころんだ視線の先には、乗ってきた波之上丸が接岸され、小さい照明をつけて佇んでいた。明日から始まる長い旅。そのスタート地点のここまでは、この船が運んでくれた。今はこの船はなくなり、フェリーなみのうえ、というのが後継で就航しているようだ。東京から沖縄の航路は、フェリーありあけが就航している。
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