鯉のぼりの行く先
yonkichi, · カテゴリー: あれこれ昨日は子供の日だった。
九州や四国では、川にロープを渡し、鯉のぼりを沢山吊るしている風景をよくみかける。四国の四万十川では、吊るすだけでなく、沈下橋にかけるように川に沈め、その流れに泳ぐ鯉のぼりもよくみかけた。旅先でみかける風景の中で、なかなか風情あるものである事から、好きだ。
実は子供の日は、私のバイクの友人としては初めて、この世から亡くした命日でもある。あまり柄はよくなかったが、一緒に塾に通い、バイクに興味を持っていた。ただ私と大きく違っていたのは、バイクに対する思い入れだったのだが、どちらにせよこの事実は当時私がバイクに乗る行為について、衝撃的な事件だった。
尾崎豊ではないが、その時も盗んだバイクで飛ばしていたようだ。詳しくは知らないが、運悪く転倒し、電柱に激突。病院に担ぎ込まれたが、まもなく亡き人となった。私はそれほど親しくなかったが、一時期は同じ屋根の下で同じ時間を過ごした事もあって、葬式の日に泣いた。バイクに乗るという事は、こういう事がいつあってもおかしくないという事を、この時知った。
しかし何故だろう。バイクのように、別にあってもなくても人が生活する上で、少しばかり便利になるものかもしれないが、必要不可欠なものではない。車にいたっては、それこそ荷物を運んだり、雨の中や雪の中でも安全に移動できたりするように、重要な役割を持つ乗り物なのは明白なのだが、バイクはそうではないとも言える。逆に人が足で支えたり、走り出さなければ倒れてしまったり、雨が降れば傘もさせずに濡れるだけという、不完全な乗り物を、なんで好んで乗るのだろうか。転べば、ただでは済まない。骨を折るかもしれないし、最悪、この世からおさらばとなってしまう程、危険な乗り物である事は変わらない。
その答えは、乗る事にある。乗って、走り出す。それだけでなく、自分のバイクを手に入れ、それに跨がり、自分の意志で走り出す事にあるのだ。単に借りて乗ればいいというものではない。それが、「こちら側」と我々が言う意味なのだから。
初めて自転車に乗った時、これまでの行動範囲が広がり、コイツがあればどこにでも行けると思えたように、イグニッションを回し、苦労して手に入れた相棒のバイクに跨がり、どこか遠くにでかけようとすると、何よりもかえがたいワクワクする気持ちがあった。そんな感覚を同じように持って、北海道や信州、沖縄などにでかける連中は、やっぱり何か普通の感覚ではないのかもしれない。
バイクって何だろう。そんな疑問には、こんな答えをする事にしている。ただ、薦める事はできない。乗るのは、こちら側に踏み出すには、あくまでも自分の意志なのだ。だからこそ、私にできる事は、バイクと旅の話をする事。私がそうであったように、扉の存在を知り、その扉の先の話を聞く事でワクワクしたように。
写真は九州は宮崎、日之影川に渡された鯉のぼりたち。

肩を押すのは楽だろう
乗り方を手ほどきするのも造作もないことだが
自分でそれをやろうとは思わない。
こちら側にくるのであれば、自分の意志と行動で来てくれれば、大きく手を広げて受け入れよう。
来る者は拒まず、去る者は追わずだね。
なんかそれ聴いた事あるー。(^_^;
でも、よくわかるんだよね。そうそう、っていう部分かな。でも実は半分くらいの人は、そうありたい、理想を求めてあの言葉を感じているように思うんだよね。
なんか、いい歳して乗り続けている人にとって、そんなん当然じゃんって思う部分を、具体的に言葉で表してくれている、代弁してくれているように思えます。
そういう意味では、読む価値のある本だよね。