丘に吹く風

時には地を這うように、時にはささやくように

東京の新盆

yonkichi, · カテゴリー: あれこれ

東京は新盆なので、今日は墓参りだ。最近、本家の方でいろいろあって、寺に行く日が多い。同時にくーは留守番が多くなるので、きっと不満だろう。人間界にはいろいろあるので許せ、というのは犬にとって通用しない。仕方ない事なのだ許せ。
近々由のセローを引き渡す為に埼玉に行かねばならないのと、須藤巨匠の家にパネルを頂きに行かないとならないなど、いろいろ予定はあるのだが、なかなか重い腰が動かない。週末に1日はゆっくりしたいので、7月中に何とか調整して、くーも連れて車で行こうかと思っている。という訳もあって、今週末は法事がイベントなのだ。
中野のお寺の駐車場は大混雑していた。車を停めるのに時間が少しかかったが、塔婆代を払ったり、いろいろ決まりの手続きをしたあとで、無事墓参り。親類縁者がいつも通り集まっている。このお寺は由緒正しい歴史のあるお寺で、江戸近郊で唯一の三重塔だったらしいが、昭和20年の大空襲で焼失し、現在の塔は復元されたもので、元々は寛永年間(17世紀前半~中葉)の建築で、高さ24m、屋根は檜皮葺の立派なものだ。先日犬仲間とオフをした池上本門寺にある五重塔や、上野寛永寺五重塔とならんで、江戸時代初期の典型的な建造物だったらしい。
墓地は勾配のある地形にあわせ、びっしりと広がっている。我が家の墓は奥の方だが、子供の頃から連れられてきたので場所は間違う事はなかった。すぐ近くまで民家が迫っており、昔はどうだったかなんていうのも全く記憶にない。また特に怖いという事もない。
その後、本家に移動し、私の実家はその本家の階下なので親父の仏壇にも線香をあげ、今日は弁当だけ今回は貰って帰る事にした。ちょっと停めただけの100円パーキングは、あっという間に300円になってしまった。この近くに親父が借りていた駐車場は、45000円/月もしていた。人が住める、と笑い話にしていた位の値段だった。別に好き好んでこの地に生まれ育った訳ではないが、時代が勝手に地価をつり上げ、夜間人口を減らし、土や木を奪っていっただけ。そんな都会の中心も中心が、私の生まれ育った地なのだ。
遅い昼を自宅で食べ、一家で公園に散歩に行くと、いつもの犬仲間の人たちが集まっていた。すっかり私も顔なじみになってしまったようだが、実家に住んでいた時には、こんなに近所の人と会話するどころか、顔をあわせた事もなかった。犬がいる事で、今住んでいる所に愛着が生まれるという感覚を、犬のおかげで味わったといっても過言ではない。
殆どの人が、墓などはすぐに行ける場所にはないだろう。都会のまん中に住み、車で15分程度の所に墓地があるような環境だからといって、お金持ちだとか地主とかいうものでもないが、まあ便利なのは確かだ。ただ、この場所が私の住むべき場所かと考えると、逆にそうではないような気がしている。
東京は新盆、来週は迎え火と送り火がある。本当の意味で、こういう儀式を理解し、納得の上ですべきではないかと最近思っている。事実、墓を維持するどころか、相続でそれまで住んでいた家は奪われる日本、自由に生きて、死ぬ事については、自分で選ぶべきじゃないだろうか。
子孫を残し、子供に老後面倒を見て貰うとか、子供がいないと寂しいという事を、親や親戚は言うが、自分が今その立場だからそう言うのであって、結局は自分勝手なものだ。少なくとも自分の事は自分でしっかり面倒を見るべきであって、子供がいたとしても、そこに頼る為に、何十年を子供を育てている訳ではないだろう。
また子孫を残すのは別の意味で大事な事だとは思っているが、要は自分は子供を育てる事に、自分の親が自分にしてきた事に対して、同じような事をしたくないという事、そして自分が6歳からずっと病院に通う薬漬けの体だという事、自分の健康に自信がない事などいろいろな理由で私はそう考えているだけだ。そしてその結果、自分の人生は自分で決めるしかないという事を改めて思っている。簡単に子供を作れ、ハイそうですかという訳にはいかなくて、考えた末の自論だったりするわけである。
何だか最近こういう事を思う事が多い。今年は年始からずっと法事が続いている事もあって、そういう年齢に達しているんだという事を考える事が多くなったせいか。今月はまた私の誕生日が来る。自分が当事者になるのも、そう先の事ではない。
写真はネパールはカトマンドゥのボダナート。ネパール最大のストゥーパであり、周辺にはゲルク、サキャ、カギュ、ニンマ等、チベット各派の仏教寺院ある。チベット仏教のように、人生で最も重要で、人の根底に近い部分として存在する宗教であれば、また別なのだろうが…
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4 Responses to “東京の新盆”

  1. かっちゃん より:

    私も義父が他界してからお寺との付合いが多くなり、自然と考えるようになりました。子供の頃からお坊さんの月参りにはつき合わされていたので、仏壇の前で手を合わせたりお経を聞くことに抵抗はありません。自然とそれが身に着きました。
    菩提寺の住職が高校の一年先輩という気安さもあり、お寺の行事にも参加することが増えているこの頃です。

  2. よんきち より:

    かっちゃん
    パパ歴の長いかっちゃんからすれば、親の心子知らずなんて言われそうですよね。墓参に行く事や、仏壇で手をあわせる事、お経を聞く事に抵抗がある訳ではないんです。ただ、本質からすれば、先祖を敬うというより、私は既に他界している父親に対し、敬う気持ちを忘れた事はありません。
    墓が持てずに散骨する人が増えていたり、墓という場所を守る為にビジネスが成立していたり、何か矛盾を感じる時、気持ちが一番大事なんではないかと思っています。
    墓地の中、手入れもされていない所もあります。あと通路だった所にいきなり墓石が建ったり。例えば、チベットで言う輪廻転生は、犯罪を減らし、後世まで平和を保とうとするよい例なのではないかと思ったりします。
    …とはいえ宗教にどっぷりはまろうなんて考えておりません。私が言っても単なるわがまま以外何ものでもないのかもしれません。私も結局の所、自分と自分の家族と、親しい知り合いが幸せになればよいと思っているだけです…

  3. じん より:

    くだらないことですが
    昭和24年に空襲はなかったと思うな(笑)

  4. よんきち より:

    じんじんさん
    あり?おかしいな。ソースが間違っていたみたい。20年ですね。訂正します。ありがとー。m(__)m

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