丘に吹く風

時には地を這うように、時にはささやくように

鹿とヒトの生活

yonkichi, · カテゴリー: あれこれ

今回北海道で多くのエゾシカが町の中で草や菜園の葉を食べているシーンをみかけた。知床が自然遺産に認められても、増えすぎている動物は自然界のバランスを崩す。鹿の天敵が減る事で、鹿が増える。開陽台にキツネが出ず、ネズミが出る事もそうだが、ネズミはエキノコックス菌を保菌している動物であり、このあたりも増えすぎや減りすぎはよくない。
今年の開陽台にはウサギが出ているようだ。これまでウサギをみた事はないが、という事はキツネも当然いない訳で、ネズミとの関係はよく分からない。どちらにしても、暑すぎたり、寒すぎたり、日照時間の関係もあわせてバランスというのは微妙に崩れながら、毎年シーズンが過ぎていく。どこがリミット、限界なのかわからないが、ある程度の調整は私は賛成する側だ。
例えばあまりに増えすぎ、森の木々や畑の植物も食い尽くすようでは、ある程度間引きしなければならない。森だって成長させるには間引きが必要だ。ほっておく事が自然だという事ではないという考えを持っている。この考えについては、個人差があり、私の意見は「そういう奴もいる」という事で読み流して頂いていっこうにかまわない。単に自然保護、動物保護という言葉だけが先行した偽善意識を私は否定する。
我が家の近くに大勢いるホームレスにしても、本気で仕事をする気があるなら方法はないとは思えない。しかし煙草や酒だけはしっかり手にして、社会や行政への文句や同じホームレス同士でのナワバリ争いだけは大声でやっている。私は連中や珍走の子はイラクのボランティアとして送ってもいいと思う位だ。正直資源ゴミだけを抜き取って散らかしっぱなしだったり、散歩にいく由たちが絡まれないか気が気ではない。無関係な人に存在だけでも迷惑をかけているならば、保護してやる必要なんかないとすら思っている。
今年、気になる事を耳にした。ある友人からは、私の知人が「鹿撃ち嫌い」であるという事だ。その知人は鹿撃ちを否定している訳でもないし、鹿肉だって食べる。しかし、友人はその知人をなぜそう言ったのか。それは、知人はとある理由で自分の住まいの周辺を禁猟エリアにし、ハンターを追い出してしまったのが理由らしい。
ここで気になる点は、人家や人がいる場所も猟区という事だ。流れ玉や釣り人やキノコ採りに藪に入っている人もいつ間違って撃たれるかわからない。事実、その知人は自分の家の敷地内で、頭の悪いハンターに撃たれそうになり、抗議した所、逆ギレをされて暴言をはかれたようだ。
町や猟友会に自分の家の廻りを禁猟にするように提言したらしいが、否定はしないものの、動きもなかったそうだ。これでは撃たれ損。殺意のない状況では、撃たれて死んでしまっても撃った方は数年刑務所に入るだけで出てきてしまうが、撃たれた人の人生はそこで終わってしまう。おかしな話だ。
知人の言う事や行動は当然の主張であり、猟区というものをもっとしっかり考えるべきではないだろうか。狩りをする方も免許やら何やら大変らしいが、それは当然だ。銃を持って人の家の近くで生き物を殺せる正当な資格が、まったく知らない所で許可されて認められている。
そこでなぜ、もっと山奥にいかないのか。置戸湖の周辺で人家がまったくない森を通る林道の入り口にハンターが入っている事が書かれた看板が出ていた。そういうようにすればいいのだろうが、やっぱり猟区の考え方にしても、人の生活する場所でどちらが弱者かを考えれば、おのずと判るはずなのに…なんでなのだろう。
鹿は北海道の特産物として、商品化する事や食用として使われる事や、増えすぎた鹿を間引くという意味での狩りは賛成だ。しかし程度問題であり、猟の対象とするなら猟をする側と猟区の中で生活する側とのどちらが尊重されるか、説明されなければ分からないような人間は猟に関係すべきではない。人が生活する為に猟がある訳で、レジャーとしての猟はまた別なものだろう。友人と知人の話の中には、結局都合のよい解釈だけで噂が広がっているように、お互いを理解しようとするような気持ちが欠けているような気がしてしまう。
人が平和に、幸せに生きていく為に、自然を守る為に、ひいては将来の地球の為に必要な猟は必要だろう。その猟は、第一に人の生活が安全に営まれ、そして必要以上にされるべきものではない。少なくとも私の友人や知人達はそれをよく分かっているはずだと信じている。
写真は町中で逃げもせず悠然と草や生け垣を食むエゾシカ達。別に直接的な被害を受ける訳ではないが、町中を自由に100kg前後サイズの動物が歩き回る事は、やはり難しい問題があるのは事実だろう。
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2 Responses to “鹿とヒトの生活”

  1. うりちゃん より:

    北海道では年々ハンターの数が減少しているそうです。これは高齢化による自然減だとのことで、エゾジカの異常繁殖はそれにも関係するのではないでしょうか。
    道内ではハンターが求められています。
    その反面、モラルの低いハンターの駆除(笑)も求められています。
    現在、自分だけよけれぱ周りがどうなろうと関係ないとする人は増加の一途をたどり、社会を大きく歪めています。
    そんな社会環境を変えていくのは、私たち庶民の意識改革なのだ、と強く感じます。
    一人ひとりがしっかり問題を認識し、草の根での意識改革を行っていく以外、何事も解決しないのではないか。
    社会を構成している私たち「一人ひとり」が変わらないことには、社会全体は変わりようがないのではないか。
    私一人くらい、あなた一人くらい大丈夫よ、との甘い社会的風潮が、安易な猟区の設定となり、他家の敷地内で平気で銃を構えるハンターを作り上げてしまう。
    そして、一人くらい大丈夫、との甘えは、地球規模の環境破壊につながります。
    そう考えると、モラルの低下したハンターの話は、道内郡部だけの問題ではないのですよね。
    私は今、真剣に自分の周りに対して責任を持つべきなのだ、と思っています。
    そして、自分の周りに責任を持とうと思える人を、一人ずつ増やしていこうとも思っています。
    そのためには、声を上げていくこと。
    受け入れてもらうためには、どう声を上げていくべきなのか、を真剣に模索しています。

  2. よんきち より:

    うりちゃん
    北海道に限らず、自分に甘く、他人に厳しい人はいますよね。
    結構自分もそうなのだろうなと思ったりします。
    人の事を偉そうに批判できる立場ではないのですが、私は本質や相手を敬う気持ちがない状態で噂が流れる事で、大事な友人や知人を失うような事をしたくない、というだけなんですが…実は違うんだよ、そうじゃないんだよ。本質は鹿撃ちの行為ではなく、モラルなんだよ、という事です。
    モラルを欠く人は都会には人の数と比例して増えます。自分以外の人に不快な気分や危害を加えても平気な人が増えているのは事実ですよね。
    私は知り合った一筋通ったキャンパーとは、気持ちのよい時間を共有する事ができる事に気がつきました。テントのナイロン1枚だけで区切ったプライバシーをお互い分かっているんですよね。開陽台みたいな多くの旅人が集まる場所では、そうではないキャンパーも居るのは確かですが、私は自分の事は自分ででき、廻りの人に迷惑をかけずに自分の時間を楽しめる旅人が大好きです。
    自分も廻りに対してそうありたい、いつもそう思っていますが、考えすぎて鬱気味になってしまうのはやっぱり根底は性格なのかもしれませんね。おおらかに生きるように、そしてある線を越えないように、っていうのが一番理想かもしれません。

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