お彼岸の散歩はお寺で
yonkichi, · カテゴリー: あれこれ今日は春分の日。お彼岸と言われるように、風邪っぽい気分が抜けない状態なのだが、半強制的に墓参の日だ。しかし今日はくーを連れていった。
寺はお彼岸という事もあって、今年も車であふれている。駐車スペースがない位にぎっしりと車で境内が埋まり、この日は寺の法被を着た案内が立ち、駐車スペースの整理をする程だ。あまり混雑した所にいきたくないし、普段から墓参りしているのだから行かなくてもいいと私は思うのだが、そういう考えはまったくない実家なのだ。元々彼岸しか墓参に来ない人が過半数だろうと思うのだが、私は静かにゆっくりとお参りできる普通の休日に行くべきではないかとすら思える。
といっても彼岸というのは昔から墓参をする事が「決まっている」というのだが、我が家を見ていると宗派とか宗教とかそういうものが曖昧なのだ。本来の宗派による墓参りや普段のお祈りなどに調べていくとギャップを感じる。これは結局長い時間を隔てて独自にルールが変わってきてしまった結果なのではないだろうか。
色々矛盾を感じるのも、今の若いものに風習というのが認められにくい現実になっているのではないかと思う。事実、ネパールやタイやインドではそういうギャップは少なからずあるかもしれないが、しっかりと受け継がれている。このあたりは見習わなくてはならないだろう。
仏教徒としてそれなりの信仰を守ろうという気もなく、単に先祖代々のルールを勝手に解釈していく事が、本当によい事なのか疑問なのだ。ただだからといって、宗教をないがしろにする訳ではない。私は自分が信じ納得のいく敬い方で敬っている訳なのだ。ただそれは昔からの風習からすればおかしいのかもしれない。それは分かっているのだが、大なり小なりそういうギャップはあるはずだと思っている。
一番大事なのは、先祖や自分の両親を敬い、自分もいつかこの世からいなくなった時に悔いがないようにする事だと思っている。ただ自分の後世に自分の存在を堅持しようとする気はことさらない。そんな大それた人生を送った訳ではないし、何より自分の人生とパートナーの人生が楽しく、幸せでいられる事が最重要だと私は信じているからだ。
そういう考えを持っている私を知ってか知らずか、今年も彼岸の1日を送った親類縁者は、実際の所信念を持ってこの日を迎えているのだろうか。私には確証が持てない。
墓参後、本家に戻り食事。くーも今回は連れていって貰って走り回っていた。甥っ子たちもくーが珍しいのか大騒ぎ。くーは子供が嫌いなので、尻尾をさげて逃げ回っていた。今は疲れて鼻先だけハウスから覗かせて眠っている。
写真は今日のお寺にて。毎年すごい車であふれ返るのだが、今日はそんなに混んでいなかった。


