丘に吹く風

時には地を這うように、時にはささやくように

同じ匂いのする旅人

yonkichi, · カテゴリー:

いつもコメントくださる女神様のBBSで、富士山のネタにちょっとレスを書かさせて頂いた。某キャンパーの集まりに参加するようになって、今では富士山の近くで毎年定例キャンプをし、焚き火と歌というタイムスリップしたかのようなイベントがあるのだが、この写真もその1シーンだ。
私はお酒に弱い事もあって、晩秋のキャンプでは寒さが身にしみてくると、いそいそと一人先にテントに戻り、冷えきったシュラフにもぐり込んで震えながら暖まるのを待った。薄いナイロンの壁を隔てて、ほんのりと焚火で照らされたテントの向こう側から、歌い声や笑い声が聞こえてくる。それを聴いていると、ウトウトと気持ちよい眠気に包まれる。
私は北海道にソロツーリングにでかけ始めたのは1985年の秋だった。そしてその翌年、日本縦断の旅をしたのだが、1988年には仕事に就き、それまでのような長期間の旅ができなくなってしまった。合法的に1カ月以上の期間で旅ができた、とても気楽な時期だったとも言える。実際この頃の私は開陽台を目指す旅人の一人であったが、多くの旅人は自分が落ち着ける場所をみつけ、旅をしていた。和琴半島の民間キャンプ場もそのひとつだ。
和琴は町からも程近く、キャンプ場も民間の為、最低限のものは敷地内で手に入る。無料の露天風呂すらすぐ近くにあり、いわゆる設備の整ったキャンプ場だった。そしてただ便利なだけでなく、屈斜路湖が広がり、ロケーションも最高と言ってもよかった。
目の前には静かな湖が広がり、後ろは林があって建物も見えない。俗世間から切り離されたパラダイスと言ってもいい程の快適なサイトだった。ここに、今でこそ長い使いになった連中が、私が同じように厳しい天候に耐え、町や風呂まで時間がかかる不便な場所である開陽台にすっかり自分の居場所を見つけていた頃、同じようにキャンプ生活をしていた。
彼らは1988年から、内地で年に2度集まってキャンプをしていた。主に東海地区で行われ、何をするでもなく、集まり、テントを張り、酒を飲み、歌を歌い、焚き火を囲んだ。このイベントは、時には集まれる人数が少なくなったりもしたが、今でもしっかり続いている。
逆に開陽台のキャンパーの知り合いにもいろいろなグループがあって、私が親しくしていた連中は特に集団意識はなかったが、丘にあがればよく会話をし、星を見上げた。この頃、お盆の数日だけ再会するようなグループは数えきれない程あったようだが、それなりに長期間滞在していた大きい集まりは3つだったと思う。みんなどうしているのだろうか。ある意味、ハイジが我々の情報中継をしてくれているとも言えるが、皆当時は20歳前後だったとすると、今はそれなりに仕事でもポジションに責任がかかってくる頃だろうし、そうそう旅にも気軽に出られなくなっている事だろう。
私の知り合いのキャンパーは、髭がぼうぼうでも、ナリは汚くても、実はとてもデリケートな感性をもっている者が多い。声はどこにいても周りに聞こえてしまうのだが、テントの薄いナイロンで、とりあえず最低限の部分だけは見せない、という部分がある。自分がそうであるように、周りに迷惑をかけたり、かけられる事を嫌い、さりげなくその場から立ち去ったりする事が、同じスタイルのキャンパーは持っている。
まあでも、あいかわらず広いテン場なのに、人が張っているテントのすぐ近くにわざわざ張ったり、周りにはまる聞こえなのに夜テントの中で大声でしゃべっている者とか、まったくマナーや配慮に無縁な連中も必ずといっていいほど居る。しかし、必然的に同じスタイルのものは相手に同じ匂いを感じるのか、すぐに名前はしらなくても、目があえばお互いニヤリとし、友人になってしまうものだ。
この旅や幕営生活で知り合いになった友人とは、一期一会ではなく、必ずといっていい程、約束や計画をしなくても再会してしまう。学生時代の友人や、会社の友人とは比べものにならない程、決定的な共通の意識が、あっさりとしている人間関係に見えて、言葉が不要な程深い絆で繋げていてくれる。
私は旅で知り合い、同じ匂いのする、デリケートな友人達を大事にし、これからも信頼しあって付き合っていきたい。焚火と歌と酒は、その繋がりに不可欠な要素なのかもしれないと思っている。
今回はあえてハイパーリンクをあまり使わないでおいた。同じスタイルのキャンパーは、人目にさらされるのを好まない。なので、あえてはっきり書いていない部分もある事を記しておこう。
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旅の始まりと行く先

yonkichi, · カテゴリー:

今日は伯父の四十九日の法要。昼前から夕方までお寺にでかけた。上下ブラックスーツだったので、日差しの下だと汗ばむ程の暑さだった。5月下旬の陽気だったらしい。ここ本当に気温差が激しく、調子が狂ってしまう。その間、くーは留守番だった。
帰ってきて疲れたので少し休憩。夕食前にまたウェブの続きをしようとPCルームに籠もったのだが、結局材料がなくて古い写真をあさっただけで夕食時間になってしまい中断。先が思いやられる。できればGW前に形をつくりたいのだが、この調子だとどこまで進められるか…
その作成中のウェブページは、。ハイジーの家のオフィシャル・サイト。ハイジーの家ができた1986年は、日本縦断の旅の中だったのだが、。ハイジーの家には立ち寄らなかった。まだ北海道の事を何も知らなかったくせに、新しくできる施設に妙に反感をもっていて、入ろうともしなかったのだった。この事は後にかあさんに毎年のように責められたのだが…1987年の旅では、しっかり。ハイジーの家に入り浸る事になった。
丘の上はまだフリーで、柵もなく、カメハウスの横までバイクを横付けする事ができた。悪天候の日はカメハウスの中で寝る者もいたようだが、私は基本的にテントで過ごし、夕食時だけはその時会話した旅人たちと取る事が多かった。そんな中、多くの人が訪れる場所という事もあって、問題を起こすものも多少出てきてしまうのは仕方がない事だ。とりまきができたり、グループ意識が強くなり排他的になり、いわゆるヌシ的な存在が登場してくる事は、当時の北海道各地ではお決まりのパターンだったようだ。
私は深く関わりあわなかったが、。ハイジーの家にいるといろいろな話を耳にする事になる。特に80年代後半から私も夏から秋にかけて毎年訪れるようになり、いろいろな知り合いが増えていったのは確かだった。基本的にはソロの集まりばかりなのだが、多くは20歳前後の若者が殆どという事もあり、その精神年齢の差には幅が出てしまう。
私は1986年にこの丘で出会い、摩周湖で泳ぎ、数日を一緒に過ごした連中とは、何年もしてから1人と再会したのだが、本当の深い付き合いになったのは、1987年の夏の終わり、一人の男と出会った。彼の名はしいたけ兄ちゃん。彼の話は個人情報保護に抵触する為と、長くなるのでここでは割愛するが、彼を介した旅人との知り合いが広がり、今の私があるといっても言い過ぎではない。この丘で私の旅人としての方向性が、決まったのは確かだ。
その運命の夏の終わり、私は開陽台に連泊する一人のツーリストだった。この写真のように多くの旅人がそれぞれの旅を楽しんでいるが、この中で何人、今も旅を続けているのだろうか。
旅は若き日の1ページなんかじゃない。旅はシナリオのないノンフィクション。ハッピーエンドになるか、バッドエンドになるかはわからないが、自分の物語はひとつしかない。旅をしていれば、その物語はずっと続く。自分がその物語を終わらせようと思えば、旅を終わらせればいい。簡単だ。
私は無職になってまで旅をしていた訳ではないが、それなりに自分が許す範囲で、時間のある限り旅の為の資金作りと旅をしてきた。当時はそれなりに一生懸命だったのだが、今思い返すとまだまだもっと旅をしておけばよかったと思う。それだけ旅は面白いものなのだから。
そうこの夏の終わり、この丘で「よんきち」は生まれたのだ。
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幸せの黄色いハンカチ

yonkichi, · カテゴリー:

ご存じ、山田洋次監督の映画だ。山田洋次監督と言えば、「男はつらいよシリーズ」でひとつの邦画の時代を築き上げた方であり、また最近では2002年に監督を勤めた時代劇作品「たそがれ清兵衛」は、2004年度のアカデミー賞にもノミネートされた事が記憶に新しい。
山田洋次監督は、北海道を舞台にした人情溢れる映画をよく撮られていた。その中で、中標津は開陽台も舞台のひとつに選んだ「家族」という映画もあり、私にとって邦画においてとても興味のある作品を多く手がけられている。そのひとつ、「幸福の黄色いハンカチ」という1977年の映画が、今日デジタル・リマスター版としてテレビで流れている。それを見ながらこれを書いている。
当時の北海道の町や風景が映画の中に残っている、数少ない作品だ。若き日の高倉健が主役で、同監督の作品では何度もヒロインを勤めている賠償千恵子、武田鉄也や桃井かおりが脇を固める。当時ベストセラーとなったマツダ・ファミリアでロードムービーよろしく、道東から道央へ旅をしていく。
かの有名な倉本聰監督の北の国からは、ご存じの通り富良野を舞台に大ヒットしたドラマである。ストーリーの重さよりあまりに日本離れしたロケーションのせいか多くの旅人を富良野へ誘った。北海道というのはやはり寒い北のイメージからか、演歌に近い暗さと深さが似合うのかもしれない。
私が北海道を深く感じたのは、以前書いたかもしれないが、炭鉱の町に立った時だった。それは夕張ではなく、上砂川だったが、夕張はどちらかというともっとメジャーな炭鉱の町で、当時どちらの炭鉱もまだ稼働していたので、繁栄のあとは残っているだろうという勝手な解釈だったのだが、その後夕張をしっかり見ようと思って訪れた時、上砂川よりもはるかに大きな衝撃を受けた。その繁栄から過疎へのギャップを町のあちこちから感じられたのだった。これも北海道の歴史そのものなのだろうと。
今回あらためて見て気づいたのだが、夕張に入る前、銀座カンカン娘が歌われているシーンが、なんと悲別ロマン座の前でのロケだったようだ。私はこの悲別ロマン座で最初の波におそわれた。中には保存が進み、中にも正式に入れるようになっているようだが、当時は足の踏み場もない程崩れており、中に入るには危険を感じた位だった。2度目に訪れた時は中央の屋根が崩落していたが、きわめて旧型の映写機が、映写室に残っているのをみつける事ができた。
この映画では、夕張の町の中は子供達であふれ、商店街はにぎやかに人々が行き交っている。これだけの人々がこの町で生まれ、育ち、そしてどこかに移っていったのだという事を考えるだけで、胸が熱くなる。
そして、この映画が作られたあと、エンディングの黄色いハンカチがたなびく長屋は、手は入れられているものの残され、誰でも自由にみる事ができるようになっている。建物の中は、沢山の黄色い紙に旅人のメッセージが壁や天井が見えない程貼られ、武田鉄也が運転したファミリアも収容されている。ベタな観光施設だが、今では訪れる人も少なく、静かに佇んでいる
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