丘に吹く風

時には地を這うように、時にはささやくように

もうひとつの目指す離島

yonkichi, · カテゴリー:

通勤中にちょっと気にしているものがある。東京湾にオフィスが引っ越したあと、1週間の通勤の中で、火曜日や木曜日に埠頭に接岸している白い船の事だ。場所は芝浦埠頭から竹芝桟橋にかけてに、停泊している。
私としては有明埠頭から出る長距離フェリーの方が好きなのだが、この白い船は小笠原諸島に向かう航路。そう、伊豆大島、三宅島、八丈島のはるか先、潮の流れを越えた先にある南の楽園、小笠原は父島へ向かう船なのだ。
竹芝桟橋には、乗船する人が大勢ごった返している時があるのだが、殆どが最近人気のあるジェットフォイル。カラフルに船体が塗られた水中翼船で、2時間前後で伊豆諸島各島を結んでいる。名前はセブンアイランド。小型の船体が軽やかに海の上を滑る姿は、やはり目立つ。レインボーブリッジを抜け、東京湾アクアラインの脇を抜けていく姿は美しい。
しかしそれよりも美しい、というか旅心を誘うのは、やはり竹芝桟橋に接岸する船の中では一番大きい、おがさわら丸だ。私は数年前にこの船に乗り、父島に渡った。いわゆる2航海ではなく1航海のスケジュールで、GWにあわせて旅した。
小笠原に渡る前には、八重山に3度、渡っている事から、独特の島文化を少々期待していたのだが、実際は東京都の管轄である事や、日本に返還された37年前より前の歴史はそれこそ抹消されてしまっている事もあるのだろう、土建屋が目立ち、素朴な島の風景は殆ど見られない独特の世界だった。
逆にダイビングをする人の姿が目立ち、ダイビングしない私には旅行者は何しに来たのか謎だったようだ。実際ストレートにその疑問を投げかける人もいた。しかし私はこの島を走り、歩き、感じたい。それだけだったので、借りたのはレンタバイクだけ。母島にも渡り、少々期待していた北村跡までガタピシのスクーターで走った。
母島に渡る直前、私は酷い風邪の症状に見舞われた。どうやら熱が高いらしい。計る手だてがなかったが、どうも往路のおがさわら丸の中でうつされたか、熱は38度くらいは余裕であるような感じだった。暑いはずなのに寒い。母島の宿で到着後しばらく震えながらベッドで寝ていたが、無理をして予約していたレンタバイクに跨がり、北村を目指した。
アップダウンのある細い道の縦断道では、少しの坂で登らなくなり、足でこいだ。誰もいない北村跡の桟橋に立って、私はようやくここまで来たんだと感じた。東屋でしばらく休み、また戻る。その辛さといったらない。港近くの食堂でその土地のものなどまったくない、どうでもいいような食事を取り、1泊後翌日父島に戻った。
父島に向かう途中、ザトウクジラを船から見る事ができた。父島は大きく見え、そして天気は期間中ずっと晴れていた。青い海は確かに潜れば新しい世界が開けそうだったが、いろいろお金もかかる事なので、結局まだ未経験のままだ。このまま潜らない事をポリシーにしてもいいかと思える程だ。
小笠原はキャンプ禁止だ。全員が何らかの宿に泊まらなければならない。これも少々ひっかかる点だか、まあ仕方ない。当然宿が足らない訳で、乗ってきた船の個室の船室を、ホテルとしても使えるように営業していた。まあ商魂逞しい事と思えるものだったが、私は基本だと思える小笠原ユースホステルに期間中宿を取っていた。
ユースらしいミーティングもないが、食事も大した事はなかった。島寿司を2度食べたが、折角海のものが美味しいはずなのに、新鮮な海のものはまともに食べていない。何故だろう。
往復の船も、昔ながらの雑魚寝の船室だ。今この時代に個室との値段の差があまりにも激しい事もあって、事実上雑魚寝しか選べないという価格体系や、運輸サービスのメニューとしては正直最低だ。それこそ住んでいる人にとっては重要な生活航路なのにもかかわらず、この客への扱いはこれまで色々な船に乗ってきた経験者としても、航行時間からすれば拷問に近い。詰め込み方も半端ではなく、人の足が顔の前に来るような事もざらだ。
格段に早い新造船が就航する予定だったらしいが、それも採算がとれなくなり、計画の消滅が先日発表されていた。逆に自然保護やコンクリートだらけの島をもっと元の形に戻すような方向で、保護していけばどうだろうか。土建屋中心の時代は既に崩壊したはずだ。
また父島の中腹には、宇宙航空研究開発機構JAXAがある。種子島で打ち上げ、軌道をまわる衛星を追跡する事を行うようだが、見学はできなかった。初寝浦への階段を必至で昇り降りしたり、島の中をうろうろしたが、何だかちょっと私にとっては得るものはあまりなかったように思えた。
昔から小笠原が好きな人は、きっとまた違う小笠原を知っているのだろうか。アイランダーと呼ばれる島旅が好きな旅人にとって、小笠原は必須だ。鉄っちゃんにとって、重要な要素を持つ大東島もアイランダーの中では重要な場所だ。私はエセアイランダーなのだが、正直父島よりも母島、母島よりは八丈島の方が何だか島文化や島の生活の臭いがして、好きだ。
写真は私を載せて父島にやってきて、停泊期間中はホテルになっている「新おがさわら丸」。失望はしたものの、やはり父島に向かう船は、旅人としてはその存在感とこれから向かう先に、ちょっと惹かれるのだ。
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シーズンイン

yonkichi, · カテゴリー:

7月8日には塾長、そして今日はシェフが丘にあがった。皆15年以上前から、この丘にあがり、ひとときの自分だけの時間を楽しんできている友人だ。そして、私もその一人。知り合いにならなかった旅人の中にも、大勢この丘に何度もあがり、自分だけの時間を楽しんでいた事だろう。
同じ時期に天幕を張ったからといって、会話を交わす事は極めて稀だ。よほど近くに張っているか、偶然話をするタイミングがあったか、ハイジーのカウンターに同じ時間座っていたかなどの条件が揃わないとなかなか相手が何者かなどはわかるものではない。ましてや、私もそうだったが、知り合いになるまでは何年かかかる事もある。
私によんきちという呼び名がついたのは、開陽台に通うようになって4年目。それまではそっと天幕を張って、近くにいた旅人と一緒に摩周湖で泳いだりしていた。2年目に偶然にも妙に気があったのがしいたけ兄だった。ビッグシングルのホンダとヤマハというバイクという事もあり、仲良くなって、丘を降りたあと霧多布岬で落ち合い、バンガローでまた語り明かしたという事が、その翌々年に再会した時にキャンパーネーム頂く事に繋がった。
97年に発売された、アウトライダーの別冊北海道で、スージーさんとねぎさんにインタビューされた時に、お気に入りの場所と、お気に入りの仲間に逢う為に、開陽台に行くという事を言った。つまる所は、景色と人の為に、旅をするという事。うまく伝えられなかったのだが、どちらが欠けてもだめなものである。ただ人に逢いに行くのではなく、そしてただその場所に行くだけなのではない。そこに行くと、誰かがいる。そしてあの風景があるから行くのだという事なのだ。
94年に大きく変貌した開陽台は、確かに当時ショックだった。ハイジーの閉店の夜、氷点下の風が吹く中、建設中の建築現場に入り込み、積んである健在をどれほど恨んだ事か。そして風の音だけの中、一人仰向けに寝ころがり、いつもと変わらぬ星空がそこにあった時にあふれた涙も、忘れる事はできない。
多くの友人が、まだあの展望台を許す事ができていない。その気持ちはよく分かる。私も新しくなった開陽台に初めてあがった時、誰もテントを張っていなかったのに、一番手という気持ちにならず、すごすごと丘を降りた時、二度とここには来ないかもしれないと感じた程だ。たかだか北海道のある場所がリニューアルしただけなのに、なんでこんな気持ちになるのか、きっと殆どの人は分からないだろうと思う。
その1か月後、今開陽台の星空の下にいるシェフが、「やっぱりここはいい所だよ」という一言を私に言った。それがきっかけになり、あまり気が向かなかったが、とりあえず一度、天幕を張ろうと決心し、あらためて丘に向かった。あとでどうするか考えればいいじゃないか。そう思いつつ。
馬の背を越えると、どうみても違和感のある巨大な建造物が、武佐様の姿を汚しているように見えた。停まらずにトイレ横の側道を一気にあがる。少々やけ気味に、アクセルをワイドに開けると、MT21が轍をほじくった。少しづつ視界が開けてくると同時に、アクセルを戻しながらサイトをみると、そこには自分がこだわっていたものを振り切る姿があった。それは、しいたけ兄のテントだった。
その夏、じみおと、レイ、そして今は亡きリュウの姿だった。
丘の時間が戻ってきた。リュウはいないけど、今年もその夏はまた繰り返しやってくるはずだ。
私にとって、21年目になる今年の開陽台の夏がやってきた。
写真はその94年の夏、変わってしまった開陽台にこれからあがり、テントを張ろうと決心したが、そのままストレートにあがる事ができずに、遠回りしたり写真を取ったりした時の自分。
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2台で走るという事

yonkichi, · カテゴリー:

元々バイクは一人で乗るものだ。マス・ツーリングなんていう言葉もあるが、これまでバイクに乗ってきて色々なシュチュエイションに会って来た訳で、一応一通りの形態は経験をしてきた。
最初は当然一人だった。高校時代3ナイ運動全盛と言われている中、私立に通っていた私は、免許は自由に取る事は可能で、別に乗るなとか誓約書を書かされるような事もなかった。その為、普段の日はなかったが、夏休みなどのクラブの練習などの時は、よくバイクで通学していた。クラブの同級生の殆どがクラッチ付バイクに乗り、高校時代はクラブとバイクに全てを費やしていたと言ってもいい。
浪人時代に初めて四国へとロングツーリングにでかけたのだが、この時が3台でのツーリングだった。GPz400、GSX-R400、そして私のRG250ガンマ。当然2stの私が最後尾を走っていたので、気分的にもそんなにペースを制限される事もなく、たいしたストレスではなかった。きっとそれよりも初めてのロングで、他の意味での緊張が大きかったのかもしれない。
大学時代も基本的にソロだった。ただ、日本縦断をした1986年は、RZ250の友人と私のSRX-4の2台だった。当然長い旅の間、ペースがあわずイライラが募り、ケンカまでは至らなかったが、荷物を分散させていた為、完全に途中でソロになる事はできなかった事もあり、他人2人でのツーリングが苦痛に感じたのはこれが初めてだった。
会社に入り、同期のバイク乗り4人で設立したバイククラブのスタッフを勤めていた時代。その後先輩後輩が加わり、最大40台を越えるバイクのマス・ツーリングを年に2度企画・実施していた。基本はソロだったのは変わらないが、正直マス・ツーリングもそれなりに興味深く参加する事ができていた。結局はツーリングではなく、千鳥での移動と、峠でのリバティ・ステージだけであり、おかげさまで無茶な乗り方をする子も居たが事故もなく運営できていた。しかし、段々と主催者の言うなりで自分で判断できかねるような言動が耳につくようになり、私が企画をしなくなり、自然消滅してしまった。結局の所、リーダーがいないとダメな団体であったという訳だ。バイク乗りはそうではないはずだ。
基本となるソロのロングツーリングは、多くの自分の生活フィールドでは知り合いになる事ができそうもない人々との出会いを生み、ますますソロという世界を確固たる自分の中での旅の仕方として思い込んでいく。複数で走る楽しさは、ソロでの出会いの楽しさを失わせるだけでなく、あとで残るものもきわめて少なくなってしまうというのが持論だ。仲間うちだけで勝手に盛り上がり、折角すばらしい出会いを自分たちが受け入れない空気を作ってしまう事、これは何のために旅に出ているか、わからなくなってしまう。
多くのカップルツーリストも同じように、自分達の世界に入ってしまうのが多いと思う。事実ここ4~5年の間に出会ったカップルのバイクツーリストは、他の旅人と交流をしようという姿勢ではなかった。逆に近寄って来る事を拒否しているようだ。自分たちの思い出を作る事だけで、周囲の空気を読めないとしか思えない言動をしているのが目についてしまう。
しかし何故だが、昔からのソロツーリストの友人が、彼女や彼氏ができ、結婚したりして一緒にツーリングするようになったとしても、決してそういう雰囲気ではないのだ。元来がソロ同士なのもあるだろう。平気で相手をほっておいて、他の旅人と話し込んでいたりする。やはりこれはその人の持つ性質なのだろうか。
私も由と2台連ねて旅をした事がある。写真は和琴でテントを撤収し、開陽台に向かう朝、サイトで由がゴミを拾っている。こういうスタイルはここ3年程やっていないが、これはこれでバランスが取れていた。私が完全にイニシアチブを取り、前を走り、後ろを確認しながら走っていた。由は私のバックミラーに映るように、素直にある程度の間隔をおいてついてくる。ただ、私が人一倍神経を使うの性格もあって、それが苦にならないという事があっての事だった。
毎日やしょっちゅうでは厳しいと今でも思う。しかし1~2週間の旅であれば、それはそれで苦にならない。微妙なバランスなのだろうが、相手を信用していて初めて成り立つ世界なのかもしれない。
しかし首都高速や夜の都心を走る時、私の気遣いがピーク近くに達してしまう時があった。信用していない訳ではないが、いくら自分側がマナーを守っても、頭の悪い運転手はどこの世界でもいる。トラックやタクシーに幅寄せされたり、煽られたりした事も数しれず。そういう場を自分ならまだしも、パートナーが遇うのは耐えられない。ソロツーリストであり、自分の事は自分でできるとしても、やはりそれは心配は心配。それは親しくしている友人にしたって同じ感覚だ。
2人で走るという事。それは特にバイクという乗り物による宿命でもある。ただ反面、2人で走る事で、ソロで走った時に味わえない事も少なくない。どちらを選ぶかは人それぞれだが、バイクの基本はソロであり、あくまでソロが複数で一緒に走る事で、出会う事も変ってくるという事なのではないだろうか。
お互いがそれまで走ってきた道を、旅人同士はシェアし、新たな経験を得る。バイクに限った事ではない、人間そのものではないだろうか。自分の事は自分でやり、相手を思いやる気持ちや尊重する事を、旅人は知っている。
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