丘に吹く風

時には地を這うように、時にはささやくように

F1の想い出

yonkichi, · カテゴリー: あれこれ

始めて富士でF1が開催された1976年。小学生の私はF1に首ったけだった。
兄が好きだったのもあるが、AUTOSPORT誌を講読し、日本初のF1が富士で開催される事に、興奮を憶えた。当時の記録が残っていたので、ざっと転載してみると、2人を除いて全てファーストネームから言える。ヲタクのようなものだったのかもしれない。
しかし今みても素晴らしい参加者だ。当時圧倒的な強さを誇っていたニキラウダは、2カ月前にニュルブルクリンクで火災事故に遇ったが、奇跡的に復帰していた。しかしひどい雨というコンディションでわずか2周でDNF。このメンバーで、今見れるものならきっとサーキットに足を運んでいると思うほど、私の青春時代の思い出でもあった。
01 05 Ma.アンドレッティ/ロータス/フォード 73
02 04 P.デパイエ/ティレル/フォード 1LAP 72
03 11 J.ハント/マクラーレン/フォード 1LAP 72
04 19 A.ジョーンズ/サーティース/フォード 1LAP 72
05 02 C.レガッツォーニ/フェラーリ/フェラーリ 1LAP 72
06 06 G.ニルソン/ロータス/フォード 1LAP 72
07 26 J.ラフィー/リジェ/マトラ 1LAP 72
08 24 H.アーテル/ヘスケス/フォード 1LAP 72
09 18 高原敬武/サーティース/フォード 3LAP 70
10 17 J.P.ジャリエ/シャドー/フォード 4LAP 69
11 51 長谷見昌弘/コジマ/フォード 7LAP 66
12 03 J.シェクター/ティレル/フォード DNF 58
13 21 H.ビンダー/ウィリアムズ/フォード DNF 49
14 16 T.プライス/シャドー/フォード DNF 46
15 09 V.ブランビラ/マーチ/フォード DNF 38
16 34 H.J.シュトゥック/マーチ/フォード DNF 37
17 12 J.マス/マクラーレン/フォード DNF 35
18 28 J.ワトソン/ペンスケ/フォード DNF 33
19 52 星野一義/ティレル/フォード DNF 27
20 20 A.メルヅァリオ/ウィリアムズ/フォード DNF 23
21 30 E.フィッティパルディ/コパスカー/フォード DNF 9
22 08 C.パーチェ/ブラバム/アルファロメオ DNF 7
23 01 N.ラウダ/フェラーリ/フェラーリ DNF 2
24 07 L.パーキンス/ブラバム/アルファロメオ DNF 1
25 10 R.ピーターソン/マーチ/フォード DNF 0
ファステストラップ1.14.300でウルフのジョディ・シェクター。最多参加エンジンであるフォードコスワースDFV V8が積まれていたが、石油王であり、あのカウンタックLP500Sのオーナーでもあったウォルターウルフが、他に主なスポンサーも付けず、その速さをみせつけた。
この中ではフェラーリ、リジェ、アルファロメオが12気筒であり、そのサウンドは鳥肌ものだった。DFVの荒々しい8気筒の音も嫌いじゃなかった。
ティレルが6輪で強かった時代もこの頃だ。この後、ツートンカラー時代にはオーバーステアが強まり上位に入れなくなっていくのだが、私は好きで実車を見に晴海にでかけたものだった。
この時走っていたパイロット達の中には、既にこの世を去った人も多くいる。ロニーピーターソン、パトリックデパイエ、翌年も富士で開催され、1コーナーで接触し空中を舞ったジル・ビルニューブ、そして先週15日クレイ・レガッツォーニが交通事故で亡くなったというニュースがあった。
F1パイロットはそれでなくてもとんでもなく危険な世界に身をおいている。しかし本戦中に起こった事故で命を落とすケースは極めて少ない。
あの時、多くのファンを熱くしてくれた人たちは、おじいさんになっても熱いものを与え続けて欲しい。決して事故なんかでは亡くなって欲しくない。
私は今でも、ロータスと言えばJPSカラーの黒金、リジェはGITANEの青、ティレルもELFの青、ブラバムの赤のマルティニカラーがF1のイメージだったりする。全てタバコメーカーばかりで、それだけ儲かっていたという事か。
写真は私が中学の頃、晴海にやってきたティレルP34。24mmの広角で撮影。小島エンジニアリングのステッカーはないだろうと、中学生ながらに思ったものだった。
20061222.jpg

遊びのツール

yonkichi, · カテゴリー: あれこれ

VR-4とスタッドレスの組み合わせは、冬を素晴らしく楽しくさせてくれた。菅平に1カ月住み込みで働きながら、シーズン券を手に午後の3時間は毎日天狗ゲレンデのスラロームバーンでトレーニングの日々だった。しかし流石に1カ月も父親の車を借りる事はできないので、この時ばかりは友人の車に同乗したのだったが、それも4駆にスタッドレスだった。
また無線もこの頃に使うようになった。同時にバイクで由とツーリングしたりする時にも使う訳なので、一時は開局申請もし、コールサインを運営していたのだが、使わなくなってからは従免だけが残っている。しかしスキー場やツーリングではとても役にたった。
これらは、スキーや遊びをもっと楽しむ事ができるような効果的なツールだった。同時にスキーの難しさにのめり込んで、ピークは大学時代から新入社員時代の数年だったと思う。喘息の私は、あまりハードに滑る事で当然反動はきたのだが、まだこの時代は比較的運動もできたのだ。
93年に職場環境が劣悪になり、120時間以上の残業が3カ月続いた時に倒れるまでは、エンデューロに出たり、スキーに没頭したりする体力があったのだ。それからというものの、明らかに自分の体力というか抗体が落ちているのを感じ、悩むのだった。
写真は今では時代遅れはなはだしいが、私の15年程前のスキーファッション。
20061209.jpg

ラジオからユーミン

yonkichi, · カテゴリー: あれこれ

妙に長い1週間が終わった。帰りのバスの中で、いつも通りラジオを聞いていると、ユーミンのロッジで待つクリスマスが流れた。今年もそんな時期なのかと思わされてしまった。
この曲を聞いたのは随分前なのだが、やはりあの邦画、「私をスキーに連れてって」を思い出してしまった。ミーハーといえばそうなのだが、スキーに対してストイックに取り組んでいた頃、エンターティメントという意味で何度も見ただけなのだ。
ラブストーリーとしての内容はどうでもよかった。細かいこだわりがとても魅力的で、随分影響を受けたものだった。
当時我が家の車は、ずっとトヨタだった。父親が私が幼少の頃から通勤に使っていたので、記憶では私が小学校に入る前に我が家にはパブリカがあった事も憶えている。私は車好きで、その頃1BOXの車の名前すら記憶していたと聞く。
ただ父親は高級指向ではなく、グレードはどちらかといえば低い方だった。その為、カローラ、スプリンター、コロナとグレードアップしていっても、最上位機種のカッコよさはエントリーモデルにはなく、なんで同じ車なのに、ウチのはこんなにカッコ悪いのだろうと思った程だった。
次第に私は車にはあまり興味がなくなり、高校からはすっかりバイクばかりになったのだが、大学に入ってスキーをするようになり、車は必要なアイテムだった。父親に頼み込んで、週末よく借りたものだが、チェーンは鉄製で、おかげさまでオーソドックスなタイプなら5分程度で駆動輪に装着できるようになった。
そして時代は流れ、フルタイム4駆が手に入れやすくなった。当時RVは抵抗があったのだが、兄と私と共同で、父親を初めてトヨタ以外の車に買い換えて貰ったのだった。それが、三菱のギャランVR-4初期型だった。
暴力的なパワーは、試乗させてもらって驚きだった。まるでバイクの加速感で、見た目が単なる中型のセダンなのがまたいい。限定モデルだったので、真っ黒で、私はバイト代を全てアルミとピレリのスタッドレスにつぎ込み、スキーに行く事を許して貰ったのだった。
それからは、VR-4でひたすら長野や山梨、群馬、新潟のスキー場に毎週のように徹夜で通ったのだった。積雪路でも、アイスバーンでも、4駆+スタッドレスの走破力は素晴らしく、まさに「私をスキーに連れてって」の中の、セリカGT-FOURのシーンを現実に実践していた。流石にゲレンデは走れないのだが、チェーンの取り付け・取り外しから解放された事は、安全面でも大きなメリットだった。
そんな事をこの映画がきっかけで、大学から社会人になってしばらくはVR-4と雪山に行く事が当然になったのだった。
写真はある時のスキー帰り。会社の友人と蔵王まで足を伸ばした日だった。
20061208.jpg