丘に吹く風

時には地を這うように、時にはささやくように

大雨で通行止

yonkichi, · カテゴリー: あれこれ

今日の朝から、降り続く雨が原因で、長野自動車道や上信越自動車道が部分的に通行止めになっているようだ。長野など高速道以外だと細めでかつワインディングの道が多い場所は、高速が使えなくなると不便だろう。
私が免許を取った頃は、軽井沢までも高速は通っておらず、碓井の旧道を走ったりもしたものだった。バイパスはトラック天国。夜間スキーの為に移動をよくしたが、トラック群に煽られ、とても恐怖だった。
雨や霧の高速を走っていても、トラッカーは容赦なくあおってくる。こちらの車が走行車線の車を追い抜こうと追い越し車線に出た途端、突然バックミラーに大映しになる位の速度差で迫ってきて、煽る。左の走行車線に車がいて、戻るに戻れない状態でも容赦なく煽る。高い座席に乗っていると偉いとでも言うのか、前が詰まっていても煽るのが多い。
紳士的に追い抜いていく車も多い。こちらは圧倒的に車のパフォーマンスが低い訳で、でも80km/hを下回る速度で走る走行車線の軽トラなどは追い抜きたい。その位の権利はあるはずなのだが、はるか後方に車がいない事を確認しても、とんでもない速度差で近づき、パッシングやテール・ツー・ノーズの嵐。私が運転しているならともかく、由が運転している時などは、頼むからやめてくれと言いたくなる。
交通弱者というよりも、マナー以前の問題だろう。仕事で忙しいのはわかるが、マナーはどんな世界でも必要なはず。タクシーだってそうだ。交差点のどまん中で平気で客を乗降させる都会のタクシーは、即刻切符すら切られてもおかしくないだろう。どれだけ周囲に迷惑をかけているか、危険な目にあわせているか判っているにもかかわらず平気でする。いわゆる自己中。
悪天候で前が霧で視界が保てない状態での走行車線ですら煽られる。それで起きる事故は起きてしかるべきだろう。何も悪くない制限速度で走っている走行車線の車が、危険な目にあうだけだ。自爆して自分だけが命を落とすのは勝手だとでも思っているのだろうか。その後に発生する事故渋滞などにより、限りなく大勢の利用者に、渋滞の中の追突や疲労という間接的な危険な状況下に巻き込んでしまう。
悪天候が原因で通行止になる事よりも、事故や割り込みなどによる自然渋滞による危険性の方が多く出会うのは、やはりマナーやモラルが欠けているドライバーやライダーのせいだといつも感じる。
もっと皆が幸せに走れないものだろうか。誰も邪魔なんかする必要がないはずなのだが…
写真はある日の渋滞の首都高湾岸線。危険があふれている。
20060719.jpg

休憩日

yonkichi, · カテゴリー: あれこれ

連休を終えて、体調を少し崩した。ずっと雨が降り続いている朝、各地でも雨量がニュースになっていた。
例年、九州や四国で大雨が事故に結びついてしまっている時期。今年は北陸を中心に暴れている。そろそろ梅雨明けになってもよい時期なのだが、今年は今が梅雨本番のような天候だ。
前線の位置や気圧の谷の影響があるのかないのか、こういう時期は喘息が出たり頭痛が出たりする。エアコンを入れないと寝られないというのもあるかもしれないが、何にしても不快指数を少しでも下げ、体の調子を戻したいと思う時期だ。
この連休あたりから、久しぶりに強烈に痛い群発性頭痛の症状が出てきてしまっている。これが出ると2~5時間動けなくなる。横になってものたうちまわり、歯を食いしばりながら治まるのを待つしかなくなってしまうのだ。この頭痛は社会人になる前からあったと思うが、あまり思い出せない。
2年前、川崎市の職場になった時、会社関係の産業医の方が、頭痛の専門医だという事を知った。会社直営の病院に何度か通ったあたりだったのだが、その中で自律神経失調症だと明確に診断されてしまった。私は93年に仕事にまじめに取り組みすぎた関係もあって、過労から肺炎を併発し、入院する予定だったのだが、ベッドが空いておらず、まる1カ月自宅療養になった。その頃から、軽度の鬱を感じるようになって、職場でも上司がまったく配慮のない事を平気で展開してくれた関係で、部署が変わる1年後までは苦しい日々だった。
部署が変わってからも、結局一度ドロップアウトした職歴は人事情報に残るせいか、扱いとしては低くされていた。移動した部署もひどく、ロクな社員がいなかったのだが、その中で部長代理の人や、その次の部長の人には実力や業務に関する姿勢を認められ、少しづつ信頼が回復されていった。というか私の中では何も変わっておらず、単に会社側が体を壊して戦線離脱したポンコツとしか見ていなかっただけだ。
それからというものの、自分がそんなにできる方だと思っていなかったので、人一倍頑張ってきた自分を戒めつつ、会社とは一線を介すようになった。ここまでは給料を貰っている範囲だが、これ以上はやらない、というように。
会社は結局何もしてくれない訳で、それは大勢いる社員の中のひとつのコマな訳だから、当然だ。会社が損をしないように、いくらでも捨て駒は発生する訳で、そんな状況で会社と社員の間に信頼関係なんか生まれる訳がない。もともと成果主義とはまったく無縁な連中が成果主義だとアラを探し、ちょっとでも気に入らないと評価欄にダメと書かれるような今、社員は会社に何を求めればよいのだろうか。
自分がこんなに体調が悪くなったのは、あの日を境にしている事は確実だ。だからこそ、体調が悪くなると、あの日の悔しい気持ちを思い出す。絶対に自分の人生の方が大事なはずなのだから、答えは決まっているのだ。
そんな気持ちを、くーが少し和らげてくれる。写真は暑さ対策で買ってきた大理石ボードの上でいきなりへそ天のくー。
20060718.jpg

海の日

yonkichi, · カテゴリー: あれこれ

3連休最終日。海の日といわれるらしい。
私たちは海の日に結婚式を挙げた。1997年の海の日は7月20日。あの日は本当に多くの友人が、中標津の丘にやってきてくれた。ある者は友人の結婚式が北海道であるので、と年休を取ってきてくれたり、富良野周辺の登山基地でテント生活をしていた時にバイクが壊れ、ヒッチハイクでやってきてくれた者がいたり、道東に根を下ろすようになった旅人が、バイト先の牧場から除草機を借りてきてくれて、普段は町がシーズン前に芝刈りをする所、私たちのサイトだけ綺麗に刈ってくれたりした。
海の日はその後、カレンダーの週末にあわせて移動するようになったが、私たちの海の日はやはり7月20日なのだ。なので単なる祭日という感覚が強い。
9年前の海の日は、それまで10年以上毎年北海道に渡り、その丘でテントを張って生活した時間の中で、考えられない暑さに加え、私たちが滞在した5日間全てが晴天という、この時期には稀にみる気候だった。逆にあまりに暑すぎて、普段はジャケットを着て丁度よいという所、Tシャツだけでも暑く、皆真っ黒になっていた。また妙な虫が繁殖し、頭のてっぺんを沢山刺されてしまった。
当時はまだモバイルPCなどはあまり性能がよくなかったのだが、Windows3.1がプレインストールされていたF社のFMV-BIBLO450NL/SにWin95を入れ、800MHz帯のmovaをモバイルカードで繋げ、当時からスタッフをしていたOutRider PATIOに、「これからこの丘で結婚式をやります。お近くにおられる方は是非お立ち寄りください」などというふざけた書き込みをしたのだった。当然来れる訳がないのに…。
式を挙げる本人たちは、単にいつもの場所で友人に見守られて式のまねごとをすればよいと思っていたのだが、お世話になっていた喫茶店のオーナーの娘さんが、知人の牧師さんを呼んできてくださった。そして、前日から入っていた友人たちが、私たちに内緒で、式次第を作ってまともな手順が組まれていった。怪しい動きを察知した地元から、取材を申し込まれたが断ったのだが、新聞社のカメラマンの人とは、集まってくれた友人の顔が判るような写真だけは撮らないでくれというお願いの元に了承した。
由のご両親が関西から東京経由で空路で入り、私の両親も空路で前日に入った。丘を初めてみた由のご両親は、こんな何もない所で式をするのかと驚かれていた。私の両親は、旅行好きだったので、1988年に一度、ツアーバスで訪れていたが、改めて何もない所だと言っていた。私たちは折り畳み椅子を出し、段ボールのテーブルの上にお茶を入れてもてなした。
その日の出来事は忘れられない。それまで、その丘では旅の友人が2組、式を挙げていた。また由のホームだった和琴半島でも、2組の友人が式をあげ、私たちの翌年にも1組が結ばれた。どれも、手作りの式で、お金なんか殆どかかっていない。それでも、どれだけ素晴らしい式を挙げられるかだと思った。
集まってくれた友人や、その時に立ち寄った自衛隊の人々、観光客などにも祝われ、自分たちが何をしているのかすら分からないような大勢の人に囲まれて過ごした時間は楽しかった。由のご両親も、私の両親も喜んでくれた。私の兄のように、式に目一杯お金をかけても別れてしまう事もある訳だが、この式は多くの人に喜ばれた。
参加してくれた人に、由が1枚1枚手縫いで作り、イラストを書いたバンダナを配った。また喫茶店のオーナーも、いつも訪れる旅人に渡す手作りの鈴を人数分用意してくれて、それも渡した。多くの人に祝われた海の日だった。
丘にはいつもの小さいテントばかりが並んでいた。式の為に用意したものといえば、コールマンのヘキサタープ3枚だけだった。テントは皆、丘の厳しい気候に耐えられる山岳用のものばかり。しかし、特別な日だという事を感じさせるものは、この日にしてはちょっと人が多いなと思える位だった事だろう。夜の焚き火を囲んで歌ったフォークソングも、離れた場所でやったので、この日に丘に泊まった無関係の旅人たちには、違和感もなかったはずだ。
そこに私たちは重点を置いた。そう、できるだけ普段のキャンプ生活の延長のようにしたかったのだ。
違った事は、釧路新聞の一面に、私たちが鐘の前で困っている写真が大きく掲載された事だけ。それが9年前の海の日の出来事だった。
写真はちょっと加工した7月22日付の朝刊の一面。よほど他にニュースがなかったのだろう。愛を誓ったというか、私たちは丘や湖で旅の中で出会った友人に感謝したのだ。
20060717.jpg