丘に吹く風

時には地を這うように、時にはささやくように

パンクの苦悩2

yonkichi, · カテゴリー: バイク

パンクの修理をしている場所は、奥にはトラックが何台も入る整備工場を持ち、広大な駐車場を持つ小樽の三菱ふそうの事業所の正門横、歩道との間にある芝のスペースだった。
事業所の人が1人、出勤してきた。私は頭を下げて、場所を借りている事を詫びながら引き続き修理をしていると、その人が車を停めて一旦事務所に入ったあとにやってきてどうしたのかと聴いた。
パンクの事と、これから船に乗る事だけを言うと、その人は事務所に戻っていく。外にも数人出社してきたので、恥ずかしい目に晒されてしまうのだが、構ってはいられなかった。
すると、一番先に出社してきた方が、タイヤサービスを呼んだから、中で到着するまで待っていなさい、と声をかけてくださった。申し訳ないのでオフィスに入るのは遠慮していると、20分後にはヨコハマタイヤの文字が書かれたタイヤサービスのトラックが到着。最初チューブという事でちょっと困ったような顔をしたのだが、手際よくチューブを専用の工具で引きずり出し、修理してくださった。
修理を完了したタイヤを組み込み、チェーン調整するのは私だった。友人に手伝って貰い、組み込む。無事修理が完了したのだった。
タイヤサービスの人も修理代を500円しか取らず、お礼を言うしかなかった。また最初に声をかけてタイヤサービスを呼んでくださった方は、お礼を言いに事務所に行った時に知ったのだが、管理職の方だった。
丁寧にお礼を言い、大勢の事務所の方が手を振って見送ってくださる中、私はフェリー埠頭に向かい、無事乗船できたのだった。感謝してもしきれなかったが、帰宅してからお礼を包んで感謝の手紙を添えて送った。
その後、三菱ふそうの問題が大きく報道され、あの人たちもきっと何かしらの影響を受けてしまったのだろうなと悲しく思い出したりもした。私は三菱の車は好きだし、販売店の人にも悪いイメージはなかった。そしてこの出来事もあり、迷惑をかけてしまったが、旅の中で人の恩というものをまたひとつ、味わったのだった。
乗船後は汗だくだった体を甲板で冷やした。風呂に入り、やっとほっとできた。
新潟には朝に接岸。同じ船に乗り合わせた友人には、じゃあ、と声をかけ、そのままノンストップで北陸自動車道から関越経由で、自宅に帰った。修理したタイヤも問題なく高速走行をする事ができた。
…余談だが、この時、石打の手前のパーキングエリアに1台、シルバーのBMW1150GSが停まっているのを高速巡行中に横目でみかけた。その後、しばらくしてそのBMWが追い抜いていくのだが、その時並走してハンドアクションを私にしてきた。まったくそのバイクと目に気付かなかったのだが、後日それが誰だか判明したのだった。
それは単に私がその日、新潟から帰って来るという情報を知っていた友人が、わざわざ東北道から北陸道経由で関越という1周コースでこの一瞬のネタの為だけに走ってきたのだった。彼は私を追い抜く2~5秒だけの為に、やってきたのだ。あとで私が正体に気がつかなかったと言うと、ヘルメットのシールドをあげるんだったと悔しがった。
バイク乗りというのはそういう人が多い。
写真は修理を終え、乗船開始しているフェリーターミナルに到着し、手続きを終えて乗船する寸前の1枚。何気ない毎年の夏の1シーンだが、この時は本当にへとへとだった。
今日のニュースで三菱ふそうのリコールの件が出ていた。お世話になった小樽の事業所の方々は、何も悪くない。その事を思うと心が痛む。
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パンクの苦悩1

yonkichi, · カテゴリー: バイク

車でパンクした事はこれまでないのだが、バイクでは何度かあったりする。
自転車でのパンクがやはり一番多く、ユーラシアのチューブは結構クタクタだった。当時はチューブラーの存在すら知らなかったし、自転車というものは補修キットを常備する事が当然だと思っていた。
車はでも、テンパータイヤに交換した事はある。それに、今年は何故だかやっていないが、毎年スタッドレスタイヤと鉄チンホイールのセットを組み換えるのも私の仕事なので、交換はよくやっていると思う。
バイクは、結構林道やら何やら走り回っていたわりには、パンクはなかった。しかし、2002年の夏、小樽のビジネスホテルで北海道ツーリング最後の夜を過ごし、翌朝の新潟行きフェリーに乗る朝、走り出した途端にリアがおかしい事に気がついたのだった。そう、見事にパンク。
今でも怪しいと思っている。真新しい5寸釘がブロックタイヤの山の間に突き刺さっていたのだが、ホテルの玄関脇に停めていた事で、夜にいたずらをされたのではないかと。それからはフェリーの出航の時間もあるので、行ける所まで行こうと徐行しながら移動したのだがリムが痛みそうだった事と、チューブが切れてしまってはもう修理もできない為、しばらく押して、フェリーの煙突が見えた所で何かほかに方法がないものかと考えた。
ビジネスホテルに同泊したZX-9とTDM850の友人が心配しながらも、どうする術もない。私は三菱ふそうの大きな支社があり、その前でバイクを停め、まずは荷物を降ろした。
観念して修理しようと思い、使えるかどうか分からなかったが、パンク修理キットを出し、センタースタンドがない為、壁によりかからせてリアタイヤを外す。
そして既に堕ちているビードの隙間からチューブを引きずり出そうとするのだが、これがまた硬く、チューブが出て来ない。四苦八苦していても時間はすぎていく。あと1時間以内にターミナルに行かないと今日の船には乗れなくなる事で、焦りも最高潮に達していた。
写真はその修理中に、疲れはてて一息ついた時の1ショット。ロシア語の看板が国境が近い地である事が感じられる。
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本棚にある思い出

yonkichi, · カテゴリー: バイク

本棚には色々な本が収容されている。それは当然だろう。
我が家にはリビングと納戸のような使い方をしている私の部屋がある。前者は基本的に普段の生活で一番使う料理本や地図、カタログなどを中心に、各種家電製品などのマニュアルや、生活に必要な書類が収容されている。特に「書類」と言われるものは領収書や契約書、明細などであり、それらはクリアファイルやフォルダに入れられて整理されている。
その中にオークションに出品しようとしていた、古いバイクのサービスマニュアルがある。車種はヤマハのSRX4の初期型。今ではもう売られているのすら見かける事もないモデルだが、私にとっては一番長く乗ったバイクだった。日本縦断をしたのもこのバイクだった。
サービスマニュアルというのは、データブックのようなものだ。キャブのクリーニングや点火タイミングの調整方法、ホイールの外し方なんかも載っている。昔はこの本を地面におき、閉じないように重りになるものを載せて、バイクの傍らに座り込んだものだ。特にSRXはキャブに入り込んでいるチョークワイヤーがやっかいで、なかなか苦労させられた。
何度も土砂降りの中、水が入り込んで錆び、チョークが引けずにエンジン始動で苦しんだ事か。一度は5km離れたホンダのバイク屋まで押していった事もある。ホンダのメカニックも、その構造をあまりよく言わなかった。メーカーによって随分違うものなのだなという事もその時から感じていたのかもしれない。
最初に乗ったバイクであるヤマハのMR50も、土砂降りの中でいきなり電気系統が沈黙し、途方に暮れた事があった。それも、キルスイッチがリークしたせいだった。原因はスイッチの金具の無駄なバリがあり、それがリークの原因だった。ヤマハとの相性がイマイチなのは、そういう経験からだ。単に私が整備をしなかったせとも言えず、相性の問題なのかもしれないなと思ったりした。
SRX4は主にトラブルといえばその程度だった。シートカウルを交換したり、ウィンカーを小型にしたり、ハンドルをマグラに換えたりと、自分なりにカスタマイズした。その為、サービスマニュアルを活用したのだが、今こうしてこのサービスマニュアルだけが残っている事が何だか寂しい。
これまで色々なものをヤフオクで売ってきたが、思い出深いものも含めて、今は次のオーナーがどう使っているのだろうかとちょっと気になる。
今さら売りに出してもきっと買い手はつかないだろう。それでもなかなか捨てられない。そんな本が、今も居間の本棚に佇んでいる。
写真はまた素顔を晒してしまうが、もう随分昔、私が今の会社に入って、会社でバイク乗りを探してはじめてツーリングに行った時のもの。自分でも若かりし頃を思い出してしまって思わず笑いが出る。このSRX4は4年半乗っていた。
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